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漆・藍・土 自然と「ともに」つくる木版画 ④ 漆とつくる木版画

  • 09.28.2024

東京都美術館 企画展「大地に耳をすます 気配と手ざわり」の開催に合わせ、2024年8月24日(土)にトークイベント〈漆・藍・土 自然と「ともに」つくる木版画〉 を行いました。お話した内容を4回に分けてお届けします。最終回は、「漆とつくる木版画」。漆の木と樹液で制作した大作《泉と傷》についてです。

第1回「青森以前
第2回「青森・藍
第3回「青森・山とつくる人びと


 

【漆の木と樹液の木版画】

取材した皆さんが手に触れてきた漆の木の形と色を、手触りで伝えられるようにと、山中さんに切り出してもらった漆の枝と漆(樹液)で木版画を手刷りし、作品集『ことづての声/ソマの舟』に1枚ずつ入れることになった。


『ことづての声/ソマの舟』に収められた手刷りの漆木版画

同じ頃、東京都美術館での展覧会で制作中の映像を上映したいと大橋学芸員から声をかけていただいた。ならば青森の漆林から木を切り出し版木に、漆そのものを色材に、展示室の天井高に合わせた大型の漆木版画を作りたいと申し出た。そして同じ展覧会作家の川村喜一さんが撮影を引き受けてくださり、夏から冬の巡りを映像に残すことができた。木の形を生かす木版画は、山の手仕事の人たちに導かれ、ついに生きた林の中から作り始めるところまでたどり着いた。

 

 


漆林での伐採の撮影

切り株から漆(樹液)がにじみ出る

木の形から作品をイメージして製材してもらう

伐採・製材の過程で木目の美しさを見ていると、水の流れのようなその形から木が水と漆を巡らせて生きていたことが感じられ、その流れを断つような線はとても彫る気になれなかった。木目をそのまま生かして写しとることを優先し、雪の漆林を描くにはどんな方法が可能かを絞っていく作業が始まった。

 

【誰も知らない漆木版画】

漆の色を色材ととらえ、漆の木を版木にした木版画は前例がないので、全てが初めての試行錯誤になった。漆塗りの技法で「拭き漆」を版木に施した上に、さらに木目に詰めた漆を紙に摺りとる作業なので、塗り技術を知る人にも答えがわからない。

驚いたのは、漆は湿度によって色が変化し固化すること、顔料を含まない漆(メディウム)自体の色の美しさ、版木が目詰まりしない緻密な表現力だ。また、水性絵具に比べ、漆は流動的でゆっくり木目に染み込んでいく。漆が動くペースや最適な湿度と温度に合わせて染み込み加減を待ち、木目の出方を何度も試作した。

「漆は血の一滴」と漆を採集する職人たち(漆掻き)はいう。漆掻きは樹皮に傷をつけ、漆が滲み出てくるのをヘラで掻きとる。木はその傷を治すため、漆を分泌して傷口にかさぶたをつくろうする。そうして木の調子に合わせて傷を増やし漆の分泌を促し採集するのを繰り返すことを、漆掻きは「木をつくる」という。漆掻きが木と「ともに」つくり出した漆が、今度は傷を癒すように版木の木目にゆっくりと染み込んでいく。その呼吸に合わせるように漆を紙に摺りとるのは、木が潤いを取り戻して命を吹き返すのに寄り添うような作業でもあった。

 


初めはプレス機で試作したが柔らかい漆の木には工業的なプレス機では木が凹んで複製には不向きだったため、手摺りでの制作に切り替えた

漆の木目を生かすことを最優先に考えると、できることがどんどん淘汰されていった

漆は、含まれる成分や湿度と温度によって固化するタイミングや色が変化する。同時に摺ったものでさえ、ほんの少しの湿度の違いで色が変化してしまう。摺るタイミングや湿度、固化の方法の正解が見つけられず苦戦し、試作を含めて100枚は摺ったが、着地点を見つける過程そのものが「自然とともにつくる」「人間の都合でつくらない」意味を受け入れていく旅のようだった。

藍の摺り方も、木目を写すのを最優先にすると、今までの使い方とは違う方法にたどり着いた。

 

そうして出来上がった木版画が《泉と傷》だ。《泉と傷》のタイトルは『ことづての声/ソマの舟』のエッセイから引用した。

 


《泉と傷》(2024) 企画展「大地に耳をすます 気配と手ざわり」東京都美術館

《泉と傷》(部分)

 

【自然素材は生きもの】

漆を使うようになって、自然素材が生き物であることをはっきりと意識できるようになった。木目を強調するためにできるだけ刷り重ねない、藍本来の色の濃さや質感を生かす、紙の白を生かし雪の表現のみで山の漆林を表すなど、素材が持つ特性を生かそうとすればするほど、余計な手を加えない方法へと導かれた。湿気による色の転び方も、木の形や木目の表れ方も、サイズや刷る枚数も、条件を受け入れていくと、この結果にしかならないというところまで方法を突き詰められた。

藍で木目摺りを試作していた時、藍の方から「こうしてみたら?」とやって見せてもらうような瞬間があり、目が覚める思いがした。自分で育てた藍が答えて見せてくれたようで、これがトリグヴさんのいう「自然と協調する」ことなのか?と思えた瞬間だった。それは自分にとっても藍や版木にとっても無駄のない方法であり、山中さんのいう「あずましい」方法のようにも思えた。素材と自分にとって「あずましい」感覚に沿ってつくっていけば、「人間の都合でつくらない」方法にたどり着くのではないか、近頃はそんな風に考えている。

つくることの意味を、美術では自己表現と捉えがちだが、つくりながら素材の自然と対話すること、自然から授かったものと「ともに」つくる過程で、自然側の目線に立って物事に気づいてみることに本来の意味がある。

 

【生きている状態に還す】


《泉と傷》版木, 漆の木(2024)

「ヨイクでは、対象について歌うのではなく、対象そのものを歌うんだ。」とヨハン・サーラ・ジュニアは言った。

(『トナカイ山のドゥオッジ』より)

サーミの歌、ヨイクの歌い手のヨハンさんはこう教えてくれた。「対象をよく知らなければヨイクを歌うことはできない」とも。ヨハンさんのこのことばは、トリグヴさんのいうゆりかごを「自然のかたちに返してあげる」という考え方とも通じるところがある。そのものが生きている時のように、あるべき姿であるようにすることが、自然に対する表現(もしくは祈り)であったり、ともに関係性を結んでいく対象への根源的な態度ではないか。そう思えるようになったのは、自然から預かった漆に沿って手を加え、その木が命を吹き返すような経験を漆木版画をつくりながらできたからかもしれない。