Haruka Furusaka | ふるさかはるか

お山参詣のこと

  • 09.07.2024

《山かけと懺悔》
木版, 土 藍 ヒバ, 2023
旧暦八月朔日に岩木山神社で行われるお山参詣を描いた木版画。東京都美術館で展示中。

昔のお山参詣では、大勢の人が登山囃子を奏で、ヒラヒラと舞う御幣を担いで神社に詣でたそうだ。宵山に山に登るのを山かけといい、翌朝のご来光を拝むため、真夜中に松明を担いで白装束に草鞋姿で登拝したという。その光の行列が山を登って行くのが麓から見えたとか、杣の山中繁敏さんが自作の漆塗りの笛で登山囃子を毎日吹き続けたという話からお山参詣に興味をもつようになり、いつか真夜中に岩木山を麓から登ってみたいというのがここ5年来の夢でもあった。チベットの人びとがカイラス山を目指すように、殺生という命のやりとりとその懺悔の意味を、登拝するうちに少し理解できるようになるのかしらなどと思いつつ。

今年はようやくその山かけが叶った。結論から言うと山頂まで辿り着けなかった。2年前に腰を痛めて足に麻痺が残って以来登山から遠のいていたので、始めから自信がなかったのだけど、それでも9合目過ぎの御蔵石まで辿り着いた時には、小雨の中、鎖もない岩場を怪我なく登ってこれたことに晴れ晴れとして、心の垢も流れ落ちた。

夜10時、神社横の登山口は冷えて湿った空気のせいか、虫の音がしない暗闇だった。時折弘前の夜景が間近に見え、雨が降り出した中腹の姥石の辺りまで、神社で奏でられていた登山囃子の太鼓の音がずっと聞こえていた。人の営みがすぐそばにあるのを、暗闇の森の中で動物たちもこんなふうに感じ取っているのだろう。遠くの太鼓の音は山かけを援護するように心細さを和らげてくれた。

 

焼止ヒュッテ前後の岩場がきつくて、よじ登りながら2度ほど心が折れかけた。どこに取り付ける岩があるのか、暗闇の中見える範囲が限られていたので、かえって落ち着いて探るしかなかったが、もし岩場の全貌が見えていたら本当に心が折れていたかもしれない。こんなところを(土石流で道が変化したとしても)、昔は松明を背負って草鞋姿で往復していたなんて。読む山かけと現実との差におののいているうち、後方から登ってきた登拝者たちに次々と道を譲って最後尾になった。

大沢のガレ場を登る間に夜が開けて来た。弘前の夜景が薄らいでゆく。徐々に周囲の花々が目に入るようになり、登頂はあきらめてゆっくり夜明けを味わいながら登り続けた。風が強くなって来た頃に種蒔苗代という池にたどり着いた。ここがなんともあずましい窪地で、その穏やかさから岩木山の中でも重要な場所だということが感じ取れた。夏にも枯れないその池は、神様が稲の種を蒔いた場所とのこと。高地にこうした池があるのは、日本海からの湿った空気でできた雲が山頂付近に留まるからだとわかった。山の神が田の神であるように、山が里まで水をもたらすことが見てわかる場所だった。

下山には下山の囃子がある。「いい山かげた 朔日山かげた ばだらばだらばだらよ」と唄い踊るのだけれど、神通力を得たといわれるばだら踊りは、ふらふらの足と晴れ晴れした心から生まれるステップなのだと、自分がばだら踊りのようにしか歩けないからよくわかった。もし今でも神社で大勢が朝からばだら踊りをしていたら、私もふらふらと一緒に踊ってみたかったが、その光景はもうない。聞けば今年麓から山かけをしたのは24名ほどだった。